女の友情は脆いとか、男女の友情はありえないとか…
昔はよくそんな議論をしていましたが、
この歳になると男女(ジェンダー)なんてほぼ無関係。
ハイイロネコ
と言うフェーズに突入しつつある今日この頃。
そんな今だからこそ、
気楽に「女の友情」を振り返って見ました。
目次
女の友情が脆いと言うのは本当なのか?
このご時世、
女だから〇〇、男だから〇〇
などと決めつけるのが NG なのは百も承知ですが…
あえて書いているのは、
先日こんな画像を見つけたから
これを見た時の個人的な感想は、
ハイイロネコ
という感じです。
いわゆる女子特有の交友関係をうまく表現したな…と。
特に…
- 年齢(世代)
- 所属(学校 / 職場 / 習い事等)
- 人生のステージ
この3つのどれかが共通する女性が一定数以上集まる場合に、
生まれる交友関係のことです。
さらに言えば、
集まる「場所」(機会)も必要。
何らかの共通項があって、
それによって強制的に顔を合わせる場所(機会)があること。
そんな条件が揃った場合に、
自然と発生するのが画像のような「友情」です。
でも、これらの条件は
年齢以外はどれも流動的な要素なので…
どれかひとつでも変化すれば、
画像のような「友情」は自然消滅します。
そんな「共通項」と「場所」だけで結ばれた友情に限って言えば…
というのは、
ハイイロネコ
女の友情がすべて脆いわけではない
もちろん、
「共通項」と「場所」を失った後にも続く友情があります。
例えば…
- 学校を卒業する(※)
- 会社を辞める
- 習い事(何らかのサークル等)を辞める
と言った場合、強制的に顔を合わせる機会を失います。
そうなると…
次に会うためには「理由」と「約束」が必要。
それでもわざわざ連絡を取って会うような仲になれば、
そこから先は、割と長い付き合いになることも。
つまり「脆くない女の友情」です。
ハイイロネコ
こうして残った交友関係に関して言えば、
なんて言われるような、
儚いものではありません。(たぶん)
ただ、それが「一生モノ」かと言われると…
ハイイロネコ
女の友情が一生モノではない理由
その昔、私の祖母や母が良く言ってました。
ハイイロネコ
と言っていた私も、じわじわ実感する歳に。
おそらく…
結婚後は家庭に入る女性が多かった時代は、
いまよりも顕著だったであろうと思えるこの現象。
理由は簡単で、
環境によって「関心ごと」が異なるから。
他人との会話が「楽しい」とか「意義がある」と感じられるのは、
自分が興味を持てる話が繰り広げられた時。
つまり、お互いの「関心ごと」がある程度一致している方が
会話も盛り上がります。
ところが…
女性の場合は環境と「関心ごと」が密接なことが多かったので、
ハイイロネコ
仕事をしている女性と、
子育て中の専業主婦の話が合わなくなってしまうのが良い例。
環境が大きく異なれば、
互いの「関心ごと」もかけ離れてしまう可能性大。
その結果…
以前のように互いの話に共感することもなければ、
楽しい時間を過ごせる確率も、
徐々に減ってしまいます。
ハイイロネコ
- 自分が興味のないことを聞かされる時間には、苦痛が伴う。
- 相手に合わせた話ばかりをしていると、自分が満たされない。
と、なれば…
やっぱり「関心ごと」が合う相手との方が、
自然と話題も豊富になるし、楽しく過ごせるものです。
こうして、その時々の環境や立場、
「関心ごと」のベクトルによって付き合う友人が変わるのも…
考え方によっては合理的で、
ハイイロネコ
結論:女の友情は流動的なだけ
女の友情すべてが「脆い」わけでもなく、
だからと言って「一生モノ」でもない。
一言で表すなら「流動的」なだけ。
ただ…
女性の友情が環境に左右されているのは、
かつての日本における男女の役割的なものの弊害、
という面もあるのかもしれません。
なぜなら、
環境で変わることがないとされる男性の友情には、
子育て中の専業主夫と、
仕事をしている男性間での「友情サンプル」が少ないから。
男女間の役割や働き方にもっと多様性が出てくれば…
ハイイロネコ
と言うか、
ハイイロネコ
自分が変われば付き合う人も変わる、
それだけのこと。
話が合わなくなった旧友に気を使って過ごす時間よりも…
今の自分に合った友人と、
楽しい時間を過ごした方がよっぽど有意義です!!
ハイイロネコ